2016年7月23日土曜日

連続テロから5年 復讐という選択肢を拒むノルウェー 遺族や生存者が当時の悲惨なSMSを公開


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    連続テロから5年 復讐という選択肢を拒むノルウェー 遺族や生存者が当時の悲惨なSMSを公開


    Photo:Asaki Abumi
    <2011年にノルウェーで一人の男が77人の命を奪った連続テロ事件から間もなく丸5年。禁錮21年と短く感じられる判決に豪華な独房などの寛容さは何を意味するのか。テロ被害に遭った他の国からも視察が訪れるというノルウェー流テロとの付き合い方> (銃乱射事件が起きた島には犠牲者の名前が綴られたモニュメントがある)

    「あの日」から、5年が経った。
     ノルウェーの人々の心をざわつかせる「7月22日」が、またやってくる。2011年7月22日、アンネシュ・ブレイビク受刑者(以下ブレイビク)は、オスロ中心地にある政府庁舎を爆破し8人の命を奪った後、オスロから離れたウトヤ島で労働党の青年部の関係者69人を銃で殺害した。単独犯行によって殺害された合計77人のうち、ウトヤ島では政治活動に積極的な20歳以下の若者が多くを占めた。
     犯行の動機は、ノルウェーの多文化主義やイスラム系移民から国を守るためだったとし、「残酷だが、必要な措置だった」とブレイビクは警察に話した。ブレイビクには、最高刑に相当する禁錮21年の判決が下された。「ここまで多くの人々の命を奪ったのに、最高刑が21年?死刑はないのか?」──そう思う人も多いかもしれない。
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    出廷したブレイビク受刑者(昨年) Lise Asreud/NTB scanpix/ REUTERS

    殺人者に対して、ノルウェーは「優しすぎる」か?

     ノルウェーには死刑制度がない。それに加え、ノルウェーのブレイビクに対する処置は、その後も多くの国々を驚かせている。「快適すぎるのでは」という刑務所の環境、オスロ大学政治学科への通信制による入学許可。そして、「隔離収監が人権侵害だ」というブレイビクの訴えの一部は裁判所によって認定された。
     ブレイビクが特別扱いされているのではなく、どの受刑者とも同じ権利を国や大学、裁判所が提供しようとした結果だ。ブレイビクだけに厳格な処置をすることを、ノルウェーは拒む。異例の対応は、国の価値観の変化を意味し、ブレイビクの憎悪が勝利したことになる。ノルウェーの人々は、ブレイビクの「思う壺にはさせない」と、「憎悪犯罪に、さらなる憎悪や刑罰で答える」ことを否定する。刑務所というのは、罰する場所ではなく、社会復帰のためのリハビリを行う場所なのだ。

    憎しみよりも、愛と思いやりをノルウェーは選ぶ

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    ブレイビクが襲撃したウトヤ島では、若い未来の政治家の卵たちがサマーキャンプを楽しんでいた。写真は2015年に撮影 Photo:Asaki Abumi
     当時、労働党青年部の党員であり、事件発生時には自宅にいたヘッレ・ガンネスタドは、ツイッターでこう呟いた。「ひとりの男性がこれだけの憎悪をみせることができたのです。私たちが共にどれだけ大きな愛をみせることができるか、考えてみてください」。この一言は国内外のメディアでも大きく報道され、当時の首相もスピーチで引用した。ウトヤ島の生存者であるスティーネ・レナーテ・ホーヘイムは、CNNのインタビューにこう答えた。「暴力は暴力を、憎悪は憎悪をうみます。これは良い解決策につながりません。私たちは、私たちの価値観のための戦いを続けます」
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    党員がメッセージを書いた紙がかけられたウトヤ島の木(左のメモから「肌の色や宗教に関わらず、人間は人間」「ひとりの男性がこれだけの憎悪をみせることができたのです。私たちが共にどれだけ大きな愛をみせることができるか、考えてみてください」「ウトヤ島」 Photo:Asaki Abumi

     テロを経験したノルウェーのこのような対応は、テロ事件が度重なる世界の中でも特殊だと話題を集めている。その一部は、生存者や犠牲者の家族の、その後の生き方。そして、テロの引き金のひとつであった、憎悪や差別感情との国民の向き合い方だ。パリなど他国でテロを経験した遺族の中には、ノルウェーの7・22サポートグループを訪問するなど、テロ後の対応について視察に来るものもいる。

    銃乱射事件が起きた島に、民主主義や過激思想を学ぶ建物を立ち上げる

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    ウトヤ島には小舟で向かう。事件当時は、フィヨルドを泳いで生き延びた者もいた Phoot:Asaki Abumi

     事件から5年がたち、悲劇を後世に伝え続けるために、ウトヤ島にはメモリアルセンターが建てられた。13人の若者の命が奪われた現場となったカフェの小屋の解体を青年部は望んだが、世論が反対した。結果、犯人が撃った銃弾の跡などを残したまま、メモリアルセンターができた。「ヘインフーセ」(守護の家)と名付けられた館内には、生存者や犠牲者の家族の同意の下、当時のSMSのやり取りが寄贈され、展示されることとなった。労働党青年の現代表マニ・フサイニは、取材に対して「この家の名前は、中にあるものを守るという意味です。館内には、かつてのカフェの一部が残っています」と答えた。
     7月15日付けのアフテンポステン紙では、館は「過去の出来事を悲しむ場所ではなく、未来を考える場所」であり、「どのような世界を望まないか考える場所ではなく、どのような世界をこれから作っていきたいか考える場所」だと説明されている。ただの展示館ではなく、「教育の場」でもあり、民主主義を問い、過激な極右思想、法制度、情報源を批判的に読み解く能力、ヘイトスピーチ、7・22に何が起きたのかを学ぶ場所となっている。9年生と10年生には社会科見学の場として提供される。テロの出来事を話しにくいと感じる教員がいる中、良い教育の場になりそうだ。
     クラッセカンペン紙 18日付けでは、「なぜ事件は起きたのか、同じような悲劇をどうしたら避けられるか。歴史から学ばなければ、また繰り返される」とウトヤ島の代表ヨルゲン・フリドネスさんは語る。

    事件を内部と外部から見つめる、2つのメモリアルセンター

     フリドネスさんは、「2011年に7・22センターで当時のツイッターが公開されたことをきっかけに、SMSの公開が検討されていた」と同紙に語る。オスロ中心地では、爆破現場となった市庁舎内に別の7・22センターがすでに設けられている。そこには、ブレイビクが使用した所持品や車が展示されているほか、ウトヤ島の青年たちの壊れた携帯電話、当日の人々のツイッターでのやり取りが公開されている。
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    爆破事件の現場となった政府庁舎内には7・22センターが設けられている。ブレイビクが爆弾として使用した車の残骸 Photo:Asaki Abumi
     市内にある7・22センターは、事件を外部からみつめる。その一方、ウトヤ島でオープンするメモリアルセンターでは、被害者と愛する者たちのプライベートなSMSが初公開されており、事件を内部から見つめることができる。

    生存者と犠牲者、愛する者たちとのプライベートなやり取りが初公開

     ウトヤ島のセンターは22日に公開されるが、地元の大手アフテンポステン紙がその一部を公開した(以下、新聞より引用)。

     ベネディクテ・ヴァトンダル・ニルセン(15)から助けを求めるSMSを受信した時、母親は、娘が大げさに妄想を言っているのだと勘違いをした。ベネディクテさんは、ブレイビクからの銃声から逃れるために小屋に隠れていた。
    17:25
    娘:ママ、大変よ。銃で攻撃を受けているの!!
    母:どんな武器なの
    娘:警察に電話して!ここに向かってって!
    母:そこに大人は誰もいないの?
    娘:いるわ!ママ、私殺されそうなの。助けて!労働党への攻撃よ!
    ウトヤ島は、子どもにとって一番安全な場所だと思っていた母親。警察が島で事件が起きていることを認め、母親は事態の緊急性をやっと理解した。
    17:46
    母:警察と話したわ。電話して。
    17:58
    母:電話してちょうだい
    18:12に、2人は電話で会話をし、娘は「ママ、これから何が起きても、私がママを愛していると覚えていてね」と伝えた。物音がして、電話は切れた。
    18:13
    母:警察とまた話したわ。ウトヤ島に向かっているそうよ。電話して。ママもそっちに向かおうか?
    警察のレポートでは、18:14に娘は腹部を撃たれ、射殺された。13人の仲間と一緒に、腹部から血を流した状態で水辺で発見された
    18:53
    母:電話して。迎えにいこうか?
    19:04
    母:そっちにいこうか?
    19:20
    母:お願い、電話して。迎えにいくのに、どこにいるか知る必要があるわ。

     警察には島に来ないように促されたが、母親は車で全速力で向かった。娘は水泳が得意だったから、きっと泳いで逃げたのだろうと思っていた。それから4日間、ほかの家族と同じ待機場所で知らせを待ち続けた。心が引き裂かれるような時間が続いた。事件が起きて約1週間後、電話が鳴り、母親は娘の死を知った。今でも犯人への怒りや、救助が遅れたことに怒りを隠せない母親のベアテ・ヴァトンダルさん。犯人や極右の思想、娘に何が起きたのかを後世が忘れないために、SMSの公開を許可した。


    ブレイビクが狙った、「青年部」とは何か?

     最後に、「青年部」とはなにかを説明したい。日本ではあまり注目を浴びることがないが、ノルウェーでは各政党に「青年部」があり、ここから未来の有望な政治家が育成される。現在の首相や大臣たちも、多くが青年部で10代の頃から楽しい政治活動時代を送ってきた。青年部の主張は母党に大きな影響を与え、青年部で採用された法案は、数年後に国会で可決されることもある。筆者が普段、集中的に取材をしているのもこの青年部だ。青年部の若者たちは、ノルウェーにとって「明るい希望に溢れた未来」そのものなのだ。
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    ウトヤ島のサマーキャンプではテントで寝泊まりする Photo:Asaki Abumi

     ブレイビクが狙ったのは、移民背景の政治家が多く、移民政策に寛容な当時の与党で、当時の首相が所属していた労働党の青年部だった。どこの青年部でも、7〜8月にはサマーキャンプが開催され、若者たちはスポーツや政策議論をしながら数日間を過ごす。ブレイビクが血で真っ赤に染めたのは、労働党青年部の子どもたちがキャンプをしながら楽しむウトヤ島だった。ウトヤ島は、「労働党の心臓」とも例えられる、政治色の強い場所だ。
     青年部たちは普段もテレビや新聞で頻繁に取り上げられるため、国民の間でも愛着が深い。ノルウェーでは、政治活動に積極的な若者は好意的に受け止められる。だからこそ、国の未来を担う青年部の若者が残酷に殺害されたことは、国民にとって大きなショックだった。
     テロ後、若者と民主主義の攻撃だとして、各政党への党員申し込みは急増した。ブレイビクの思惑は外れ、政治活動に積極的な若者たちはさらに増えた。「ブレイビクが否定した今のノルウェーを、私たちは維持する。ノルウェーは変わらない。憎しみの道を辿らず、憎しみには負けない。憎悪や差別感情を拡散させないために、後世に歴史を伝えなければいけない」。この思いを支えにし、ノルウェーでのテロ議論や憎悪や差別との闘いは、これからも続いていく。Photo&Text: Asaki Abumi

    [執筆者]
    yoroi-profile.jpg[執筆者]
    鐙麻樹(ノルウェー在住 ジャーナリスト&写真家)
    オスロ在住ジャーナリスト、フォトグラファー。上智大学フランス語学科08年卒業。オスロ大学でメディア学学士号、同大学大学院でメディア学修士号修得(副専攻:ジェンダー平等学)。日本のメディア向けに取材、撮影、執筆を行う。ノルウェー政治・選挙、若者の政治参加、観光、文化、暮らしなどの情報を数々の媒体に寄稿。オーストラリア、フランスにも滞在経歴があり、英語、フランス語、ノルウェー語、スウェーデン語、デンマーク語で取材をこなす。海外ニュース翻訳・リサーチ、通訳業務など幅広く活動。『ことりっぷ海外版 北欧』オスロ担当、「地球の歩き方 オスロ特派員ブログ」、「All Aboutノルウェーガイド」でも連載中。記事および写真についてのお問い合わせはこちらへ

    ノルウェー流テロとの付き合い方

    連続テロから5年 復讐という選択肢を拒むノルウェー 遺族や生存者が当時の
    悲惨なSMSを公開

    2011年にノルウェーで一人の男が77人の命を奪った連続テロ事件から間もなく
    5年。禁錮21年と短く感じられる判決に豪華な独房などの寛容さは何を意味す
    るのか。テロ被害に遭った他の国からも視察が訪れるというノルウェー流テロと
    の付き合い方> 


    「ひとりの男性がこれだけの憎悪をみせることができたのです。私たちが共にど

    れだけ大きな愛をみせることができるか、考えてみてください」

    2016年7月10日日曜日

     速報 死刑廃止世界大会の袴田ひで子さん
    CPRニュースレター87号(2016年7月10日発行)掲載予定)
    NPO法人監獄人権センター(CPR)事務局長  田鎖麻衣子

    6月21日から23日まで、オスロ(ノルウェー)において開催された死刑廃止世界大会に、袴田巌さんの姉・袴田ひで子さんがゲストとして招かれた。この大会は、フランスを本拠地とする国際的な死刑廃止団体ECPM(“共に死刑に反対を”の意)が、世界死刑廃止連盟(WCADP)と共に3年に一度開催するもので、第6回となる今回は、ノルウェー、フランス、オーストラリア各政府の後援のほか、EU、ルクセンブルク、スペイン、トルコ、ベルギー、モナコ、イタリア、フランコフォニー国際協会、パリ弁護士会などによる援助を受け、世界90か国以上から参加者を得て行われたものである。監獄人権センターはWCADPの構成団体であり、筆者は第1回のストラスブール大会から欠かさず参加してきたが、今回は、83歳にして初の海外渡航となるひで子さんの付き添い役という任務を帯びての出席となった。
    開会式[1]に先立つ公式記者会見に、ノルウェーのブルゲ・ブレンデ外務大臣、フランスのジャン=マルク・エロー外務・国際開発大臣(元首相)らと共に臨んだひで子さん。最近の巌さんの様子について「48年も監獄の中にいたらまともではいられない。巌は、巌の世界を作り上げて別人間のよう。今は家に帰り、肉体的には健康だが、精神的にはまだ監獄の中にいたときのまま」と述べた。また、翌22日の夜にオスロ大学で開かれた特別イベントには、2015年のノーベル平和賞を受賞したチュニジア国民対話カルテットのメンバーや、アメリカ、アイルランド[2]、ウガンダ[3]、マラウィ[4]の元冤罪死刑囚らと共に登壇。ひで子さんは、事件直後から現在にいたる雪冤の闘いを振り返り、「事件発生から50年になりますが、巖にとっても私にとっても取り戻すことのできない半世紀です。巖は固く心を閉ざしながらも、必死で生きるための闘いをしていると思いますし、その心の中は張り裂けんばかりの無実の叫びであふれかえっていることと思います。Thank you for your attention(ご清聴ありがとうございました)」とスピーチを締めくくった。会場は総立ちとなり拍手を送った。
    袴田さんの事件には、アムネスティ・インターナショナルをはじめとする世界の人権団体・個人が救援活動に取り組んできた。そのため、世界の死刑廃止コミュニティにおけるひで子さんの知名度は非常に高く、様々な人から声をかけられたのだが、誰もが、背筋をまっすぐに伸ばし確かな足取りで歩きまわり、はきはきと話すひで子さんに、「60代くらいにしか見えない」と驚愕。巌さんの無罪が確定したらぜひお揃いで私の国に来てください、という誘いも少なからず受けた。東京高裁での即時抗告審は既に3年目を迎えているが、1日も早く再審が開始され、巌さんの冤の雪がれることを願う。 



    [1] 開会式には、死刑存置国も含め世界10数か国の閣僚が出席したほか、ロベール・バダンテール氏(フランスが死刑を廃止した際の法務大臣。現在はECPMの名誉総裁。ひで子さんが対面した中で唯一、ひで子さんより年上=88歳=の人物)、ザイド・フセイン国連人権高等弁務官(ヨルダン王子)らがスピーチ。フランシスコ・ローマ教皇からのビデオメッセージも流され、広く世界に報道された。
    [2] アイルランドがすべての犯罪について死刑を廃止したのは1990年だが、大会に参加したピーター・プリングル氏は1980年に死刑判決を受けた。
    [3] ウガンダでの最後の死刑執行は2005年であり、事実上の死刑廃止国と位置付けられている。https://www.deathpenaltyworldwide.org/country-search-post.cfm?country=Uganda
    [4] マラウィでの最後の死刑執行は1992年であり、事実上の死刑廃止国と位置付けられている。https://www.deathpenaltyworldwide.org/country-search-post.cfm?country=Malawi

    2016年6月26日日曜日

    ひで子さんオスロへ

    20日 午後成田発で夕方アムステルダムに到着。乗り換えでオスロへ向かい22時半過ぎにオスロ着。
        成田からは格安のビジネスチケットでゆったり初外国フライトが出来たようです。22
    21日 夕方オスロ大学(イベント会場)で記者会見が行われ、ノルウエー及びフランスの外務大臣が同席。
        通訳は、ロンドン大学に留学して法律を勉強中の、平勇輝さんでした。帰国して機会があったら浜松に来て巌さんに会いたいと言っています。
        
    ひで子さんの初の海外の印象は「建物が綺麗だった」とのことでした。
        さすがひで子さん。現地でも朝は早起きで、オスロの街中をホテルを基点にあちこち散策してきたようです。
        大会会場では、フランスで死刑制度を廃止したバタンデールさんに会い、巖さん解放前に来日してひで子さんを激励してくれた、イギリスの「死刑廃止議員連盟」のダブスさん、さらには、2度のスペインのエルパイスの取材でカメラマンとして同行したソフィアさん、福岡事件の支援で浜松に来た折、巖さんと会っているアメリカのジョージさんともお会いしたとの事です。

        イベントでは、2015年ノーベル平和賞を受賞した「チュニジア国民対話カルテット」のメンバーの方とも顔を合わせてきたようです。

    22日 オスロ発の飛行機の出発が遅れ、アムステルダムの乗り換え便に間に合わず、延々帰国便の手続きのため空港で待機したようです。
        結局、大幅に遅れてアムステルダムから、ソウル経由で24日22時ころ成田に到着し、東京で一泊して25日の朝帰宅しました。
        ソウルでも3時間くらい待ち合わせが会ったようです。
        帰ってからの時差ぼけが心配でしたが、何ともないということでした。ひで子さんは、腕時計を2個持参して、常に日本時間を気にしていたようで、それで体調管理が出来ていたのでしょうか。



    https://pbs.twimg.com/media/CloPcloWMAAufmS.jpg
           バタンデールさん90歳

                                https://scontent.xx.fbcdn.net/t31.0-8/13517403_1074684252606148_13128921097436843_o.jpg                          
    チュニジア国民対話カルテットのメンバーと

                                    
    https://scontent.xx.fbcdn.net/v/t1.0-9/13516546_1074961102578463_4032380789705582955_n.jpg?oh=81a802c1f0fe835d556f24b396896811&oe=57EABBEC



     
       ノルウエー、フランスの大臣と記者会見






          大会事務局ジェシカさん、田 
    鎖さん、通訳の平さんと
    アメリカのジョージさんと

    ひで子さんのオスロ

    ひで子さんオスロへ

    20日 午後成田発で夕方アムステルダムに到着。乗り換えでオスロへ向かい22時半過ぎにオスロ着。
        成田からは格安のビジネスチケットでゆったり初外国フライトが出来たようです。
    21日 夕方オスロ大学(イベント会場)で記者会見が行われ、ノルウエー及びフランスの外務大臣が同席。
        通訳は、ロンドン大学に留学して法律を勉強中の、平勇輝さんでした。帰国して機会があったら浜松に来て巌さんに会いたいと言っています。
        
    ひで子さんの初の海外の印象は「建物が綺麗だった」とのことでした。
        さすがひで子さん。現地でも朝は早起きで、オスロの街中をホテルを基点にあちこち散策してきたようです。
        大会会場では、フランスで死刑制度を廃止したバタンデールさんに会い、巖さん解放前に来日してひで子さんを激励してくれた、イギリスの「死刑廃止議員連盟」のダブスさん、さらには、2度のスペインのエルパイスの取材でカメラマンとして同行したソフィアさん、福岡事件の支援で浜松に来た折、巖さんと会っているアメリカのジョージさんともお会いしたとの事です。

        イベントでは、2015年ノーベル平和賞を受賞した「チュニジア国民対話カルテット」のメンバーの方とも顔を合わせてきたようです。

    22日 オスロ発の飛行機の出発が遅れ、アムステルダムの乗り換え便に間に合わず、延々帰国便の手続きのため空港で待機したようです。
        結局、大幅に遅れてアムステルダムから、ソウル経由で24日22時ころ成田に到着し、東京で一泊して25日の朝帰宅しました。
        ソウルでも3時間くらい待ち合わせが会ったようです。

        帰ってからの時差ぼけが心配でしたが、何ともないということでした。ひで子さんは、腕時計を2個持参して、常に日本時間を気にしていたようで、それで体調管理が出来ていたのでしょうか。

    有名人!?

    ひで子さんオスロから無事帰国。ひで子さんオスロでも有名人。イギリスの「袴田巖死刑囚議員連盟」のダブス上院議員、福岡事件の支援者でもあるアメリカのジョージさん、スペインの写真家ソフィアさんとお会いしたそうです。写真は自宅でオスロの地図をみるひで子さん。

    死刑廃止世界大会 オスロ

    アムネスティFBより
    オスロで「死刑廃止世界会議」開催、袴田秀子さんが参加】

    6月21日から23日の3日間、ノルウェーのオスロで「第6回死刑廃止世界会議」が開催されています。この大会は、国際NGOが主催しており、今年は80カ国、1300人の参加者が見込まれています。

    日本からは、えん罪の可能性が非常に高いとされ、2年前に釈放された袴田事件の袴田巖さんの姉、秀子さんが参加。巖さんが厳しい取調べで自白に追い込まれた話や、長年の拘置所生活で拘禁症に苦しむ姿を語りました。袴田事件は、世界でも大きく報道されており、秀子さんの講演も注目を集めました。

    世界的に注目が集まる一方で、いまだに巖さんの再審は開始していません。アムネスティは、再審開始に向けて支援を続けています。(写真:袴田秀子さん(中央)、アムネスティ国際事務局・死刑廃止担当者(左)、アムネスティ・モンゴル支部事務局長(右))

    2016年6月21日火曜日

    6月20日。いよいよひで子さんオスロ出発。巌さんは身柄解放から2年が経過し、事件発生から6月30日で50年。巖さんからオスロでの会議へのメッセージは「世界支配はみんなが良い方法を取らにゃいかん」、また、死刑をなくすためには「拷問をなくすこと。死刑は拷問とも言われる」というものでした。
    以下、ひで子さんの現地でのアピール文案です。

    弟巌は無実の罪で477ヶ月間獄中におりました。
    2014327日、再審開始決定により身柄が解放されました。しかし、検察官の即時抗告により、再審開始とはならず今も死刑囚のままです。
    今年で事件発生から50年。巌は80歳になってしまいました。
    私は巖の心がよく分かります。全く身に覚えのない罪で、死刑囚としてとらえられ、死刑執行の恐怖に耐え続けたことから、「裁判は終わった」、「事件はない」等々と、自分だけの世界を作り、心を閉ざしているものと思います。
     
    私たちは6人兄弟で男3人女3人です。巖は一番末っ子です。巖には子供が一人おります。男の子です。事件当時は実家に預けていた子供に会うため巖は毎週土曜日に実家まで帰っておりました。
    事件のあった日、巖はその日限って部屋で一人だったものですから、アリバイがないということで、警察は目をつけ、実家に帰った時にもで、あとをつけられたりしておりました。
    逮捕され連日夜中まで長時間、時に拷問による取調べがありました。ひどい時は便器を取調室の中に置いて、トイレにも行かせないということもありました。
    当時私たちは民事訴訟も刑事訴訟も区別がつかないくらいほとんど何も知りませんでしたので、知り合いの人に頼んで、弁護士さんを紹介していただきました。
    自供したと言うので、兄2人と私と弁護士さんの4人で清水の警察署に行きました。弁護士さんが面会して帰ってくるといきなり「こんなに(顔が)腫れている」というのが第一声でした。それをそばの刑事が聞いていて「ああ、医者に診せたから」と慌てて言いました。そうとうひどい目に遇わされと思っております。
    警察で調べられている間、私たちはテレビの二ュースでしか様子がわかりません。ニュースの時間は首引きで見ておりました。「ボクサー崩れ」とか、「女性問題が多い」とか、あたかも極悪人であるような報道でございました。私たちはただ家の中に閉じこもり、外にも出られませんでした。周りの人たちは、みんな 犯人だと思っていたと思います。「今日も犯行を否認した」というニュースが流れるたびに、辛い毎日でございました。
    一審の裁判にはほとんど母親が出ております。その後母親は体調を崩し、半病人のようになり、ついに寝たきりの生活になってしまいました。巖が自供したというときは、早めの夕飯を済ませた後、「巖が自供した」とニュースを知らせると、母は「世間を狭く生きてゆくしかないね」とつぶやいておりました。その母もその後胃癌をわずらい、体調を崩し、1968年11月に68歳で亡くなくなりました。続いて父も1969年4月に亡くなりました。
    母が亡くなった後は、「何か用事があったら、私のほうに言ってよこすように」と私が母の後を引き継ぎました。一日に便せん7枚、それを2組 ほとんど毎日、日記のように書いて送ってよこしておりました。
    1991年11月までは、来ておりましたが、以後途絶えました。「なぜ、手紙を書かないの」と面会の時に聞いたら、拘置所の人が言ったのか分かりませんが、「書かないほうがいいと言った」と言うんです。そろそろ心の病が出始めていたのでしょうか、訳のわからないことを書き始めていました。
    静岡の拘置所から、死刑台のある東京拘置所に移ってからは兄二人と私が面会しておりました。
    最高裁で死刑が確定し、死刑囚の舎房に移ってからは、大変おとなしくなりまして、「ひどいところにいるよ。部屋の中から鍵も開けられん」と言って初めて弱音を吐きました。
    それから半年ぐらいして面会に行った時のことです。アタフタと巖が面会室にはいって来まして、「きのう 処刑があった。隣の部屋の人だった。お元気でと言ってた。みんながっかりしている」と一気に言いました。私はあっけにとられながら、何がなんだかわからず、誰がとも聞けず、「ふーん」と言うばかりでした。相当のショックだったと思います。
    それからしばらくして、「電気を出すやつがいる」と言い出しました。「かゆみの電波を出す」とか 「痛みの電波を出すやつがいる」とか言いだしました。それで私は「電気風呂があるぐらいだから体にいいよ」と返事しました。また「食べ物に毒が入っている」「毒殺される」とも言っておりました。 
    その後面会拒否があり、「姉はいない」とか「兄はいない」とか言っておりましたが、私は毎月面会に行っておりました。ひょっとして、会う気持ちになるかもしれないと思って面会に行っていました。
    兄たちは、上の兄が20014月に亡くなり、下の兄も20093月に亡くなりました。

    巖が解放されるまでの約48年間、盆も正月も祭りも無く、ただひたすら巖の無実を晴らすために一生懸命頑張って参りました。DNAの鑑定結果、弟は犯人でないことがはっきりしまして、何か肩の荷が降りたような気がしました。
    弟巖の無実を信じ、生きて私の手元に迎えることだけを考え、ただただひたすらに生きて来た私のこれまでです。
    最愛の弟と一緒に暮らし始め2年が過ぎました。事件発生から50年になりますが、巖にとっても私にとっても取り戻すことのできない半世紀です。
    巖は固く心を閉ざしながらも、必死で生きるための闘いをしていると思いますし、その心の中は張り裂けんばかりの無実の叫びであふれかえっていることと思います。

     Thank you for your attention.


                  袴田ひで子

                    

    2016年6月12日日曜日

    ひで子さんと歌う会

    4月30日 ひで子さんを囲んでカラオケに出かけました。
    巖さんを誘ったのですが、「それどこじゃない」とお断りでした。
    第2回目を計画中。


    巖さんの「上告趣意書」補充意見

                                     静岡国体での巖さんのファイト(1957年)

    巖さんが書いた上告趣意書のその中に、録音とっていることを巖さんが書いているところがあるようですね。
    「録音とってる」

    『刑事等が前もって私に対し弁護士に言いつけたら後で半殺しにしてくれるからと言い渡し、刑事等が盗聴しているのであります』って書いてあるんです。こういうこと巌さんは知っていたんですか。
    「しらん。わかりゃせんな。ウソの事だな。いろんなことが書いてあるが、日本でやったことウソのこと。袴田巖がこう言ったとか、ああ言ったっていうの全部ウソなんだ」

    『取調べの真相を弁護人に訴えることが出来なかったのであります。何故なら、盗聴器によって総て聞かれているので、刑事等の違法行為を弁護人に訴えれば、その後の反動的取調べで、私は生命にも係る拷問虐待を強いられることは火を見るよりも明らかであったのでございます』って書いてあるんです。
    「否認をするというね根本的にああいうことが違う、こういうことが違う。言い分だな、みんなウソで書かれているだね。袴田巖が勝たなきゃしょうがないんで。勝つように書かれているんだね。日本でやったことがね。

    その後『その所為で弁護人には取り調べ状況を訴え得なかったのであります。当時私は生命を守る為に、1日も早く清水警察署を出て体調を正常に戻し、そして裁判所に於いて本件捜査陣等のデッチ上げ虚構及び偽証の悪辣極まった本件捜査過程を公判廷の場で明らかにして行きたかったのであります』
     これはすごい。

    「まあ。どういうことなのかな。袴田巖が勝つにゃ。そういうことに書いてなきゃしょうがないんだね。事件がない、無罪があるからね。国家が認めているんだからね。それに対立することが間違っている。ウソのことなんだね。色んなこと書いてあるがね。袴田巖が勝つように警察が書いているんだ。」

    その後『警察の法を犯した捜査過程に於いて、私は犯人でないという真実を主張すれば、その時点で、私の生命は危険であり、又、弁護人に不当な本件取調べを訴えたところで、その日に清水警察署を出られる筈もなく、拷問等を避ける道はないのであります。当時、私にとっての生とは調官の意のままになることでありました。私は自らの命を必要に守ったのであります。』
    これで頑張ったんですね。

    「いろんな言い分があるんだがね、無罪だということを、事件をやっちゃいないんだぞということを警察が書いているんだな。警察、検察が書いているだね、それはどうしても事件がない、無罪があるからだ。それが冤罪事件。警察、検察がやっているんだ。これが無罪だと言っている。やっちゃあいねえんだぞということは、証拠がある、事件がない、無罪だぞということ。」
    これ多少は記憶がありますか。

    「そういった記憶がないんだね。記憶がね。警察、検察が書いてることがね、勝たせるために書いている。」
    巖さんが頑張って書いてるものだと思いますよ。

    「そんな風にね、見られちゃうんだね。」
    いい文章だと思います。

    「マア世の中証拠として残っていくことがね、書きゃね。残っていくということなんだがね。矢張り根本的に事実関係がしっかりしていにゃしょうがないだね。事件がない、無罪じゃどうもしょうがないんだ。最初の勝負はね。警察、検察、裁判所の証拠が事件がない、無罪がある。 これを見て、有罪にしようったって出来るわけがないんだ。あらゆることを袴田巖が言っている、書いている、これで無罪だ、これで無罪と書いているんでね。これは警察、検察、裁判所が書いていること。世の中、冤罪事件で、であるから冤罪事件を認めているんだね。やっちゃいねえんだぞと。そういう証拠をああでもないこうでもない引っ張り出して、どういうことかと言えば、本人は事件はない、無罪がある。どうにもそれ以外にないんだね、結果がね。それに見合うように証拠がいくらでも作られてきてるんだね。それだけ善だって、司法権力がね。事件がない、無罪。そいつを殺そうと、本当に殺してしまおうと、とても出来だでね。だからあれで無罪、これで無罪、やってないということをいっぱい書いているんだね。」
    巖さんが書いていること正しいと思います。

    「そういうことが司法権力なんだがね。権力が無実の野郎を殺そうなんて思やせんのだ実際。」
    本当の正しい権力ならね。それが間違っていたんですね。

    「権力者がね実際じゃ思やせんだね。これは修行の為にやってることだね、袴田巖がねハワイにいて修行の為にやっていることだね。」
    後ね、巖さんね、傷の話を覚えているんですか。

    「あんなものどうあったって死んだ人がないんだからね。事件がないだからね。関係はありゃせんのだね。」
    肩の傷もあって、足のほうにも傷があったんですか。すねに。

    「どうだかな。分かりゃせんがね。いろんな傷ぐらいなものいくらでも出来るんだからね、後からね。疑いを持たせる為、いっぱい傷ぐらい出来る。死んだ人がいないんじゃ何があったってしょうがない。」
    火事のときに、消火活動で傷、肩の傷を受けたって聞いたんです。

    「そんなことは後で書くだけのこと。いくらでも書けるんだからね。あそこに傷があった、ここに傷があったことぐらいね。いくらでも書けるだからね。あそこに傷があった、まそういう風に犯人であるというね。証拠だね。自白した、犯人だ、傷があるだとか、疑わしてるだけだね。現に死んだ人がいないんじゃしょうがないんだね。こがね味噌、こがね味噌事件って言ったって死んだ人がいないのに、犯人だ、犯人だって言ったって、勝てるわけないんだね。」
    足の傷の記憶は全くないですか。

    「ないね。どうまあ、そんなこと問題になったのか。なったとも思えんだね。問題にしたとこが、足の傷がどういうこと、足の傷があるから犯人だといえやせんだからね。」
    肩の傷は言われちゃったんですか。

    「どうだったか、忘れちゃってるんだが。傷なんかどこにどうあったって、へっちゃらだね。死んだ人がいねえんだからね。」
    これ、いい文章です。 

    「全部ウソだからね。全部嘘言っているんだ。」
                                           (5/22  自宅にて)

    2016年4月3日日曜日

    イギリスからの千羽鶴

    巖さん解放から2年目となる3月27日、ふるさと浜松で「袴田事件は終わっていない」=再審無罪を求める集会=を開催しました。
     巖さんの集会参加は、お姉さんからの働きかけにかかっていて、この日はこれまでにない状況が生まれ、集会参加が実現しました。
     いつものように、街に出かける巖さんに、お姉さんは「あいさつに行くから2時までに帰ってきてね」と送り出したそうです。
     結果は1時半ころ帰宅し、少し経ってから、うとうとしていたお姉さんに巌さんから「行かなくて良いのか」と、声をかけれらたそうです。
     何の挨拶かは聞いていなかったと思いますが、「挨拶」には出かける用意ができてきたように思いました。
     集会での写真ですが、千羽鶴はアムネスティのイギリスの人たちから送られた誕生祝いの千羽鶴です。
     再審開始の行方は、検察の意見に同調した裁判官の決定で、無意味な検証実験が行なわれることなり、再審開始までの道筋は描かれていません。
     
     

    2016年3月14日月曜日

          闘う巌さんの獄中からの手紙(1978,3,10)
     12日に巌さんの傘寿を祝う会を行ないました。そこで、参加者に配布した、巌さんが果敢に闘っていたころの手紙です。3月10日が巌さんの80歳の傘寿を祝う会には24人の参加者及びメディアの取材があり、総勢では30人を超す会合になりました。


    前略 渡辺様 公に 前進こそが 勝ちの道
    面会有難うございました。差入れ受け取りました。何時も有難う。
    警察のデッチアゲ偽造工作完遂をもって逮捕起訴されて十一年有余 私はこの暗黒のデッチ上げ虚構に対する満腔の怒りを一瞬たりとも忘れることはできない。先ず捜査陣の違法は裁判に於いて認められている。無罪は当然だ。我々は本件完全無罪判決戦取への重大な決意をこめ積極的に働きかつ主張し、私の青天白日無実を示す全証拠を鮮明に打ち出すことによって、本件起訴事実を全面的大破産に追いこみ、支援諸氏による本件裁判闘争勝利に向けた熱い団結により新たな大運動に堰を切ったように開始されることを切望しています。宜しくお願い致します。
    本件の滑稽さは次の件に尽きる。捜査主任松本が端切のデッチ上げという愚かしくも鈍に過ぎる手段に依拠せざるを得なかった事態には、最早いかなる意味に於いても国民に反逆するものである。第一穿けもしないズボンを所持する人間はいない。この点に争いは有さない。従って決め手とされている端切が本件ズボンの端布と仮定しても、それが被告人の実家に存在するわけはないのである。これこそ捜査陣のドズ黒い偽証工作を露にしているのである。本件端切の発見者松本捜査主任の保身の為の偽証工作は見え見えである。正しく彼が狂乱の極みに達していたことの顛末である。
    本件に於いて松本捜査主任等は己の面子の為には無実であろうとそんなことは問題にせず、何がなんでも人民の中から犯人をデッチ上げるという暴挙を露骨に働いている。人民諸氏、このような権力犯罪を許すのか、全人民は横暴に満たされた司法殺人を見てみぬ振りをするのか、そのようなことは断じて許さない筈だ。今こそ善良な庶民に断固たる態度決定を迫りたい。不正義を徹底的に憎み、横暴を憤る人民の広範な総決起を実現していかなければ、決して権力犯罪はあとを断たないのである。心ある人民各位に訴える。権力犯罪を絶対にゆるさぬため火玉となって共に闘って下さいますよう。全支援者、人民諸君、満を持して明らかにされた起訴事実の完全破綻という紛れもない事実に、あらためて心底からデッチ上げに対する怒りを爆発させてほしい。無実の人間を陥れた、裁判官等司法権の極めて卑劣なデッチ上げ、死刑弾圧を粉砕すべく、今こそ人民は団結してほしい。
    誰が見ても私の無実証拠は明確である。それを証明する全証拠は検察官も同意せざるを得なかった確固不動のものである。総ての国民諸君、友人諸君、袴田巌を知るすべての知人各位、無実の袴田が獄中十一年半余という合法的謂   なき、この権力の暴挙をどうして許せようか。この暗黒のデッチ上げ裁判死刑弾圧をつつけさせることがどうして出来ようか。本件の司法殺人大暴挙に、心ある人民の怒りは心底から煮えたぎっている筈だ。獄中の私の血の叫びはどこまで届いているだろうか。不条理の下で操作された本件有罪判決に対する、私の怒りは胸はりさけんばかりである。支援諸氏は、今こそ社会正義を各人が堅持し、不当に対する人民の当然の怒りを大爆発させていってほしい。本件のどす黒い体現、暗黒デッチ上げ裁判粉砕のために、必要な全てを直ちに遣退けなくてはならない。一日も早く、一刻も早く晴天白日無実の私は正義に守られて共に勝利せねばならない。つまるところ横川判決は外部にも内部にも弁解の余地は全くない内容の決定的産物だ。

    渡辺登様   一九七八・三・一三     袴田巌

    2016年1月1日金曜日

    2015年大晦日

    年の瀬も何のその、巌さんはお出かけです。
    浜松の街に栄養を与えるためと。

    さて、

    ひで子さんにとって巌さんのドキュメンタリー映画は、混乱、別世界で暮らす巌さんを主張する巌さんの存在が確かめられた、納得、充実感がポスター掲示の気持ちではないでしょうか。


    そんな風に感じました。