2016年6月21日火曜日

6月20日。いよいよひで子さんオスロ出発。巌さんは身柄解放から2年が経過し、事件発生から6月30日で50年。巖さんからオスロでの会議へのメッセージは「世界支配はみんなが良い方法を取らにゃいかん」、また、死刑をなくすためには「拷問をなくすこと。死刑は拷問とも言われる」というものでした。
以下、ひで子さんの現地でのアピール文案です。

弟巌は無実の罪で477ヶ月間獄中におりました。
2014327日、再審開始決定により身柄が解放されました。しかし、検察官の即時抗告により、再審開始とはならず今も死刑囚のままです。
今年で事件発生から50年。巌は80歳になってしまいました。
私は巖の心がよく分かります。全く身に覚えのない罪で、死刑囚としてとらえられ、死刑執行の恐怖に耐え続けたことから、「裁判は終わった」、「事件はない」等々と、自分だけの世界を作り、心を閉ざしているものと思います。
 
私たちは6人兄弟で男3人女3人です。巖は一番末っ子です。巖には子供が一人おります。男の子です。事件当時は実家に預けていた子供に会うため巖は毎週土曜日に実家まで帰っておりました。
事件のあった日、巖はその日限って部屋で一人だったものですから、アリバイがないということで、警察は目をつけ、実家に帰った時にもで、あとをつけられたりしておりました。
逮捕され連日夜中まで長時間、時に拷問による取調べがありました。ひどい時は便器を取調室の中に置いて、トイレにも行かせないということもありました。
当時私たちは民事訴訟も刑事訴訟も区別がつかないくらいほとんど何も知りませんでしたので、知り合いの人に頼んで、弁護士さんを紹介していただきました。
自供したと言うので、兄2人と私と弁護士さんの4人で清水の警察署に行きました。弁護士さんが面会して帰ってくるといきなり「こんなに(顔が)腫れている」というのが第一声でした。それをそばの刑事が聞いていて「ああ、医者に診せたから」と慌てて言いました。そうとうひどい目に遇わされと思っております。
警察で調べられている間、私たちはテレビの二ュースでしか様子がわかりません。ニュースの時間は首引きで見ておりました。「ボクサー崩れ」とか、「女性問題が多い」とか、あたかも極悪人であるような報道でございました。私たちはただ家の中に閉じこもり、外にも出られませんでした。周りの人たちは、みんな 犯人だと思っていたと思います。「今日も犯行を否認した」というニュースが流れるたびに、辛い毎日でございました。
一審の裁判にはほとんど母親が出ております。その後母親は体調を崩し、半病人のようになり、ついに寝たきりの生活になってしまいました。巖が自供したというときは、早めの夕飯を済ませた後、「巖が自供した」とニュースを知らせると、母は「世間を狭く生きてゆくしかないね」とつぶやいておりました。その母もその後胃癌をわずらい、体調を崩し、1968年11月に68歳で亡くなくなりました。続いて父も1969年4月に亡くなりました。
母が亡くなった後は、「何か用事があったら、私のほうに言ってよこすように」と私が母の後を引き継ぎました。一日に便せん7枚、それを2組 ほとんど毎日、日記のように書いて送ってよこしておりました。
1991年11月までは、来ておりましたが、以後途絶えました。「なぜ、手紙を書かないの」と面会の時に聞いたら、拘置所の人が言ったのか分かりませんが、「書かないほうがいいと言った」と言うんです。そろそろ心の病が出始めていたのでしょうか、訳のわからないことを書き始めていました。
静岡の拘置所から、死刑台のある東京拘置所に移ってからは兄二人と私が面会しておりました。
最高裁で死刑が確定し、死刑囚の舎房に移ってからは、大変おとなしくなりまして、「ひどいところにいるよ。部屋の中から鍵も開けられん」と言って初めて弱音を吐きました。
それから半年ぐらいして面会に行った時のことです。アタフタと巖が面会室にはいって来まして、「きのう 処刑があった。隣の部屋の人だった。お元気でと言ってた。みんながっかりしている」と一気に言いました。私はあっけにとられながら、何がなんだかわからず、誰がとも聞けず、「ふーん」と言うばかりでした。相当のショックだったと思います。
それからしばらくして、「電気を出すやつがいる」と言い出しました。「かゆみの電波を出す」とか 「痛みの電波を出すやつがいる」とか言いだしました。それで私は「電気風呂があるぐらいだから体にいいよ」と返事しました。また「食べ物に毒が入っている」「毒殺される」とも言っておりました。 
その後面会拒否があり、「姉はいない」とか「兄はいない」とか言っておりましたが、私は毎月面会に行っておりました。ひょっとして、会う気持ちになるかもしれないと思って面会に行っていました。
兄たちは、上の兄が20014月に亡くなり、下の兄も20093月に亡くなりました。

巖が解放されるまでの約48年間、盆も正月も祭りも無く、ただひたすら巖の無実を晴らすために一生懸命頑張って参りました。DNAの鑑定結果、弟は犯人でないことがはっきりしまして、何か肩の荷が降りたような気がしました。
弟巖の無実を信じ、生きて私の手元に迎えることだけを考え、ただただひたすらに生きて来た私のこれまでです。
最愛の弟と一緒に暮らし始め2年が過ぎました。事件発生から50年になりますが、巖にとっても私にとっても取り戻すことのできない半世紀です。
巖は固く心を閉ざしながらも、必死で生きるための闘いをしていると思いますし、その心の中は張り裂けんばかりの無実の叫びであふれかえっていることと思います。

 Thank you for your attention.


              袴田ひで子

                

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