2016年6月26日日曜日

ひで子さんオスロへ

20日 午後成田発で夕方アムステルダムに到着。乗り換えでオスロへ向かい22時半過ぎにオスロ着。
    成田からは格安のビジネスチケットでゆったり初外国フライトが出来たようです。22
21日 夕方オスロ大学(イベント会場)で記者会見が行われ、ノルウエー及びフランスの外務大臣が同席。
    通訳は、ロンドン大学に留学して法律を勉強中の、平勇輝さんでした。帰国して機会があったら浜松に来て巌さんに会いたいと言っています。
    
ひで子さんの初の海外の印象は「建物が綺麗だった」とのことでした。
    さすがひで子さん。現地でも朝は早起きで、オスロの街中をホテルを基点にあちこち散策してきたようです。
    大会会場では、フランスで死刑制度を廃止したバタンデールさんに会い、巖さん解放前に来日してひで子さんを激励してくれた、イギリスの「死刑廃止議員連盟」のダブスさん、さらには、2度のスペインのエルパイスの取材でカメラマンとして同行したソフィアさん、福岡事件の支援で浜松に来た折、巖さんと会っているアメリカのジョージさんともお会いしたとの事です。

    イベントでは、2015年ノーベル平和賞を受賞した「チュニジア国民対話カルテット」のメンバーの方とも顔を合わせてきたようです。

22日 オスロ発の飛行機の出発が遅れ、アムステルダムの乗り換え便に間に合わず、延々帰国便の手続きのため空港で待機したようです。
    結局、大幅に遅れてアムステルダムから、ソウル経由で24日22時ころ成田に到着し、東京で一泊して25日の朝帰宅しました。
    ソウルでも3時間くらい待ち合わせが会ったようです。
    帰ってからの時差ぼけが心配でしたが、何ともないということでした。ひで子さんは、腕時計を2個持参して、常に日本時間を気にしていたようで、それで体調管理が出来ていたのでしょうか。



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       バタンデールさん90歳

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チュニジア国民対話カルテットのメンバーと

                                
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   ノルウエー、フランスの大臣と記者会見






      大会事務局ジェシカさん、田 
鎖さん、通訳の平さんと
アメリカのジョージさんと

ひで子さんのオスロ

ひで子さんオスロへ

20日 午後成田発で夕方アムステルダムに到着。乗り換えでオスロへ向かい22時半過ぎにオスロ着。
    成田からは格安のビジネスチケットでゆったり初外国フライトが出来たようです。
21日 夕方オスロ大学(イベント会場)で記者会見が行われ、ノルウエー及びフランスの外務大臣が同席。
    通訳は、ロンドン大学に留学して法律を勉強中の、平勇輝さんでした。帰国して機会があったら浜松に来て巌さんに会いたいと言っています。
    
ひで子さんの初の海外の印象は「建物が綺麗だった」とのことでした。
    さすがひで子さん。現地でも朝は早起きで、オスロの街中をホテルを基点にあちこち散策してきたようです。
    大会会場では、フランスで死刑制度を廃止したバタンデールさんに会い、巖さん解放前に来日してひで子さんを激励してくれた、イギリスの「死刑廃止議員連盟」のダブスさん、さらには、2度のスペインのエルパイスの取材でカメラマンとして同行したソフィアさん、福岡事件の支援で浜松に来た折、巖さんと会っているアメリカのジョージさんともお会いしたとの事です。

    イベントでは、2015年ノーベル平和賞を受賞した「チュニジア国民対話カルテット」のメンバーの方とも顔を合わせてきたようです。

22日 オスロ発の飛行機の出発が遅れ、アムステルダムの乗り換え便に間に合わず、延々帰国便の手続きのため空港で待機したようです。
    結局、大幅に遅れてアムステルダムから、ソウル経由で24日22時ころ成田に到着し、東京で一泊して25日の朝帰宅しました。
    ソウルでも3時間くらい待ち合わせが会ったようです。

    帰ってからの時差ぼけが心配でしたが、何ともないということでした。ひで子さんは、腕時計を2個持参して、常に日本時間を気にしていたようで、それで体調管理が出来ていたのでしょうか。

有名人!?

ひで子さんオスロから無事帰国。ひで子さんオスロでも有名人。イギリスの「袴田巖死刑囚議員連盟」のダブス上院議員、福岡事件の支援者でもあるアメリカのジョージさん、スペインの写真家ソフィアさんとお会いしたそうです。写真は自宅でオスロの地図をみるひで子さん。

死刑廃止世界大会 オスロ

アムネスティFBより
オスロで「死刑廃止世界会議」開催、袴田秀子さんが参加】

6月21日から23日の3日間、ノルウェーのオスロで「第6回死刑廃止世界会議」が開催されています。この大会は、国際NGOが主催しており、今年は80カ国、1300人の参加者が見込まれています。

日本からは、えん罪の可能性が非常に高いとされ、2年前に釈放された袴田事件の袴田巖さんの姉、秀子さんが参加。巖さんが厳しい取調べで自白に追い込まれた話や、長年の拘置所生活で拘禁症に苦しむ姿を語りました。袴田事件は、世界でも大きく報道されており、秀子さんの講演も注目を集めました。

世界的に注目が集まる一方で、いまだに巖さんの再審は開始していません。アムネスティは、再審開始に向けて支援を続けています。(写真:袴田秀子さん(中央)、アムネスティ国際事務局・死刑廃止担当者(左)、アムネスティ・モンゴル支部事務局長(右))

2016年6月21日火曜日

6月20日。いよいよひで子さんオスロ出発。巌さんは身柄解放から2年が経過し、事件発生から6月30日で50年。巖さんからオスロでの会議へのメッセージは「世界支配はみんなが良い方法を取らにゃいかん」、また、死刑をなくすためには「拷問をなくすこと。死刑は拷問とも言われる」というものでした。
以下、ひで子さんの現地でのアピール文案です。

弟巌は無実の罪で477ヶ月間獄中におりました。
2014327日、再審開始決定により身柄が解放されました。しかし、検察官の即時抗告により、再審開始とはならず今も死刑囚のままです。
今年で事件発生から50年。巌は80歳になってしまいました。
私は巖の心がよく分かります。全く身に覚えのない罪で、死刑囚としてとらえられ、死刑執行の恐怖に耐え続けたことから、「裁判は終わった」、「事件はない」等々と、自分だけの世界を作り、心を閉ざしているものと思います。
 
私たちは6人兄弟で男3人女3人です。巖は一番末っ子です。巖には子供が一人おります。男の子です。事件当時は実家に預けていた子供に会うため巖は毎週土曜日に実家まで帰っておりました。
事件のあった日、巖はその日限って部屋で一人だったものですから、アリバイがないということで、警察は目をつけ、実家に帰った時にもで、あとをつけられたりしておりました。
逮捕され連日夜中まで長時間、時に拷問による取調べがありました。ひどい時は便器を取調室の中に置いて、トイレにも行かせないということもありました。
当時私たちは民事訴訟も刑事訴訟も区別がつかないくらいほとんど何も知りませんでしたので、知り合いの人に頼んで、弁護士さんを紹介していただきました。
自供したと言うので、兄2人と私と弁護士さんの4人で清水の警察署に行きました。弁護士さんが面会して帰ってくるといきなり「こんなに(顔が)腫れている」というのが第一声でした。それをそばの刑事が聞いていて「ああ、医者に診せたから」と慌てて言いました。そうとうひどい目に遇わされと思っております。
警察で調べられている間、私たちはテレビの二ュースでしか様子がわかりません。ニュースの時間は首引きで見ておりました。「ボクサー崩れ」とか、「女性問題が多い」とか、あたかも極悪人であるような報道でございました。私たちはただ家の中に閉じこもり、外にも出られませんでした。周りの人たちは、みんな 犯人だと思っていたと思います。「今日も犯行を否認した」というニュースが流れるたびに、辛い毎日でございました。
一審の裁判にはほとんど母親が出ております。その後母親は体調を崩し、半病人のようになり、ついに寝たきりの生活になってしまいました。巖が自供したというときは、早めの夕飯を済ませた後、「巖が自供した」とニュースを知らせると、母は「世間を狭く生きてゆくしかないね」とつぶやいておりました。その母もその後胃癌をわずらい、体調を崩し、1968年11月に68歳で亡くなくなりました。続いて父も1969年4月に亡くなりました。
母が亡くなった後は、「何か用事があったら、私のほうに言ってよこすように」と私が母の後を引き継ぎました。一日に便せん7枚、それを2組 ほとんど毎日、日記のように書いて送ってよこしておりました。
1991年11月までは、来ておりましたが、以後途絶えました。「なぜ、手紙を書かないの」と面会の時に聞いたら、拘置所の人が言ったのか分かりませんが、「書かないほうがいいと言った」と言うんです。そろそろ心の病が出始めていたのでしょうか、訳のわからないことを書き始めていました。
静岡の拘置所から、死刑台のある東京拘置所に移ってからは兄二人と私が面会しておりました。
最高裁で死刑が確定し、死刑囚の舎房に移ってからは、大変おとなしくなりまして、「ひどいところにいるよ。部屋の中から鍵も開けられん」と言って初めて弱音を吐きました。
それから半年ぐらいして面会に行った時のことです。アタフタと巖が面会室にはいって来まして、「きのう 処刑があった。隣の部屋の人だった。お元気でと言ってた。みんながっかりしている」と一気に言いました。私はあっけにとられながら、何がなんだかわからず、誰がとも聞けず、「ふーん」と言うばかりでした。相当のショックだったと思います。
それからしばらくして、「電気を出すやつがいる」と言い出しました。「かゆみの電波を出す」とか 「痛みの電波を出すやつがいる」とか言いだしました。それで私は「電気風呂があるぐらいだから体にいいよ」と返事しました。また「食べ物に毒が入っている」「毒殺される」とも言っておりました。 
その後面会拒否があり、「姉はいない」とか「兄はいない」とか言っておりましたが、私は毎月面会に行っておりました。ひょっとして、会う気持ちになるかもしれないと思って面会に行っていました。
兄たちは、上の兄が20014月に亡くなり、下の兄も20093月に亡くなりました。

巖が解放されるまでの約48年間、盆も正月も祭りも無く、ただひたすら巖の無実を晴らすために一生懸命頑張って参りました。DNAの鑑定結果、弟は犯人でないことがはっきりしまして、何か肩の荷が降りたような気がしました。
弟巖の無実を信じ、生きて私の手元に迎えることだけを考え、ただただひたすらに生きて来た私のこれまでです。
最愛の弟と一緒に暮らし始め2年が過ぎました。事件発生から50年になりますが、巖にとっても私にとっても取り戻すことのできない半世紀です。
巖は固く心を閉ざしながらも、必死で生きるための闘いをしていると思いますし、その心の中は張り裂けんばかりの無実の叫びであふれかえっていることと思います。

 Thank you for your attention.


              袴田ひで子

                

2016年6月12日日曜日

ひで子さんと歌う会

4月30日 ひで子さんを囲んでカラオケに出かけました。
巖さんを誘ったのですが、「それどこじゃない」とお断りでした。
第2回目を計画中。


巖さんの「上告趣意書」補充意見

                                 静岡国体での巖さんのファイト(1957年)

巖さんが書いた上告趣意書のその中に、録音とっていることを巖さんが書いているところがあるようですね。
「録音とってる」

『刑事等が前もって私に対し弁護士に言いつけたら後で半殺しにしてくれるからと言い渡し、刑事等が盗聴しているのであります』って書いてあるんです。こういうこと巌さんは知っていたんですか。
「しらん。わかりゃせんな。ウソの事だな。いろんなことが書いてあるが、日本でやったことウソのこと。袴田巖がこう言ったとか、ああ言ったっていうの全部ウソなんだ」

『取調べの真相を弁護人に訴えることが出来なかったのであります。何故なら、盗聴器によって総て聞かれているので、刑事等の違法行為を弁護人に訴えれば、その後の反動的取調べで、私は生命にも係る拷問虐待を強いられることは火を見るよりも明らかであったのでございます』って書いてあるんです。
「否認をするというね根本的にああいうことが違う、こういうことが違う。言い分だな、みんなウソで書かれているだね。袴田巖が勝たなきゃしょうがないんで。勝つように書かれているんだね。日本でやったことがね。

その後『その所為で弁護人には取り調べ状況を訴え得なかったのであります。当時私は生命を守る為に、1日も早く清水警察署を出て体調を正常に戻し、そして裁判所に於いて本件捜査陣等のデッチ上げ虚構及び偽証の悪辣極まった本件捜査過程を公判廷の場で明らかにして行きたかったのであります』
 これはすごい。

「まあ。どういうことなのかな。袴田巖が勝つにゃ。そういうことに書いてなきゃしょうがないんだね。事件がない、無罪があるからね。国家が認めているんだからね。それに対立することが間違っている。ウソのことなんだね。色んなこと書いてあるがね。袴田巖が勝つように警察が書いているんだ。」

その後『警察の法を犯した捜査過程に於いて、私は犯人でないという真実を主張すれば、その時点で、私の生命は危険であり、又、弁護人に不当な本件取調べを訴えたところで、その日に清水警察署を出られる筈もなく、拷問等を避ける道はないのであります。当時、私にとっての生とは調官の意のままになることでありました。私は自らの命を必要に守ったのであります。』
これで頑張ったんですね。

「いろんな言い分があるんだがね、無罪だということを、事件をやっちゃいないんだぞということを警察が書いているんだな。警察、検察が書いているだね、それはどうしても事件がない、無罪があるからだ。それが冤罪事件。警察、検察がやっているんだ。これが無罪だと言っている。やっちゃあいねえんだぞということは、証拠がある、事件がない、無罪だぞということ。」
これ多少は記憶がありますか。

「そういった記憶がないんだね。記憶がね。警察、検察が書いてることがね、勝たせるために書いている。」
巖さんが頑張って書いてるものだと思いますよ。

「そんな風にね、見られちゃうんだね。」
いい文章だと思います。

「マア世の中証拠として残っていくことがね、書きゃね。残っていくということなんだがね。矢張り根本的に事実関係がしっかりしていにゃしょうがないだね。事件がない、無罪じゃどうもしょうがないんだ。最初の勝負はね。警察、検察、裁判所の証拠が事件がない、無罪がある。 これを見て、有罪にしようったって出来るわけがないんだ。あらゆることを袴田巖が言っている、書いている、これで無罪だ、これで無罪と書いているんでね。これは警察、検察、裁判所が書いていること。世の中、冤罪事件で、であるから冤罪事件を認めているんだね。やっちゃいねえんだぞと。そういう証拠をああでもないこうでもない引っ張り出して、どういうことかと言えば、本人は事件はない、無罪がある。どうにもそれ以外にないんだね、結果がね。それに見合うように証拠がいくらでも作られてきてるんだね。それだけ善だって、司法権力がね。事件がない、無罪。そいつを殺そうと、本当に殺してしまおうと、とても出来だでね。だからあれで無罪、これで無罪、やってないということをいっぱい書いているんだね。」
巖さんが書いていること正しいと思います。

「そういうことが司法権力なんだがね。権力が無実の野郎を殺そうなんて思やせんのだ実際。」
本当の正しい権力ならね。それが間違っていたんですね。

「権力者がね実際じゃ思やせんだね。これは修行の為にやってることだね、袴田巖がねハワイにいて修行の為にやっていることだね。」
後ね、巖さんね、傷の話を覚えているんですか。

「あんなものどうあったって死んだ人がないんだからね。事件がないだからね。関係はありゃせんのだね。」
肩の傷もあって、足のほうにも傷があったんですか。すねに。

「どうだかな。分かりゃせんがね。いろんな傷ぐらいなものいくらでも出来るんだからね、後からね。疑いを持たせる為、いっぱい傷ぐらい出来る。死んだ人がいないんじゃ何があったってしょうがない。」
火事のときに、消火活動で傷、肩の傷を受けたって聞いたんです。

「そんなことは後で書くだけのこと。いくらでも書けるんだからね。あそこに傷があった、ここに傷があったことぐらいね。いくらでも書けるだからね。あそこに傷があった、まそういう風に犯人であるというね。証拠だね。自白した、犯人だ、傷があるだとか、疑わしてるだけだね。現に死んだ人がいないんじゃしょうがないんだね。こがね味噌、こがね味噌事件って言ったって死んだ人がいないのに、犯人だ、犯人だって言ったって、勝てるわけないんだね。」
足の傷の記憶は全くないですか。

「ないね。どうまあ、そんなこと問題になったのか。なったとも思えんだね。問題にしたとこが、足の傷がどういうこと、足の傷があるから犯人だといえやせんだからね。」
肩の傷は言われちゃったんですか。

「どうだったか、忘れちゃってるんだが。傷なんかどこにどうあったって、へっちゃらだね。死んだ人がいねえんだからね。」
これ、いい文章です。 

「全部ウソだからね。全部嘘言っているんだ。」
                                       (5/22  自宅にて)