2016年7月23日土曜日

連続テロから5年 復讐という選択肢を拒むノルウェー 遺族や生存者が当時の悲惨なSMSを公開


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    連続テロから5年 復讐という選択肢を拒むノルウェー 遺族や生存者が当時の悲惨なSMSを公開


    Photo:Asaki Abumi
    <2011年にノルウェーで一人の男が77人の命を奪った連続テロ事件から間もなく丸5年。禁錮21年と短く感じられる判決に豪華な独房などの寛容さは何を意味するのか。テロ被害に遭った他の国からも視察が訪れるというノルウェー流テロとの付き合い方> (銃乱射事件が起きた島には犠牲者の名前が綴られたモニュメントがある)

    「あの日」から、5年が経った。
     ノルウェーの人々の心をざわつかせる「7月22日」が、またやってくる。2011年7月22日、アンネシュ・ブレイビク受刑者(以下ブレイビク)は、オスロ中心地にある政府庁舎を爆破し8人の命を奪った後、オスロから離れたウトヤ島で労働党の青年部の関係者69人を銃で殺害した。単独犯行によって殺害された合計77人のうち、ウトヤ島では政治活動に積極的な20歳以下の若者が多くを占めた。
     犯行の動機は、ノルウェーの多文化主義やイスラム系移民から国を守るためだったとし、「残酷だが、必要な措置だった」とブレイビクは警察に話した。ブレイビクには、最高刑に相当する禁錮21年の判決が下された。「ここまで多くの人々の命を奪ったのに、最高刑が21年?死刑はないのか?」──そう思う人も多いかもしれない。
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    出廷したブレイビク受刑者(昨年) Lise Asreud/NTB scanpix/ REUTERS

    殺人者に対して、ノルウェーは「優しすぎる」か?

     ノルウェーには死刑制度がない。それに加え、ノルウェーのブレイビクに対する処置は、その後も多くの国々を驚かせている。「快適すぎるのでは」という刑務所の環境、オスロ大学政治学科への通信制による入学許可。そして、「隔離収監が人権侵害だ」というブレイビクの訴えの一部は裁判所によって認定された。
     ブレイビクが特別扱いされているのではなく、どの受刑者とも同じ権利を国や大学、裁判所が提供しようとした結果だ。ブレイビクだけに厳格な処置をすることを、ノルウェーは拒む。異例の対応は、国の価値観の変化を意味し、ブレイビクの憎悪が勝利したことになる。ノルウェーの人々は、ブレイビクの「思う壺にはさせない」と、「憎悪犯罪に、さらなる憎悪や刑罰で答える」ことを否定する。刑務所というのは、罰する場所ではなく、社会復帰のためのリハビリを行う場所なのだ。

    憎しみよりも、愛と思いやりをノルウェーは選ぶ

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    ブレイビクが襲撃したウトヤ島では、若い未来の政治家の卵たちがサマーキャンプを楽しんでいた。写真は2015年に撮影 Photo:Asaki Abumi
     当時、労働党青年部の党員であり、事件発生時には自宅にいたヘッレ・ガンネスタドは、ツイッターでこう呟いた。「ひとりの男性がこれだけの憎悪をみせることができたのです。私たちが共にどれだけ大きな愛をみせることができるか、考えてみてください」。この一言は国内外のメディアでも大きく報道され、当時の首相もスピーチで引用した。ウトヤ島の生存者であるスティーネ・レナーテ・ホーヘイムは、CNNのインタビューにこう答えた。「暴力は暴力を、憎悪は憎悪をうみます。これは良い解決策につながりません。私たちは、私たちの価値観のための戦いを続けます」
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    党員がメッセージを書いた紙がかけられたウトヤ島の木(左のメモから「肌の色や宗教に関わらず、人間は人間」「ひとりの男性がこれだけの憎悪をみせることができたのです。私たちが共にどれだけ大きな愛をみせることができるか、考えてみてください」「ウトヤ島」 Photo:Asaki Abumi

     テロを経験したノルウェーのこのような対応は、テロ事件が度重なる世界の中でも特殊だと話題を集めている。その一部は、生存者や犠牲者の家族の、その後の生き方。そして、テロの引き金のひとつであった、憎悪や差別感情との国民の向き合い方だ。パリなど他国でテロを経験した遺族の中には、ノルウェーの7・22サポートグループを訪問するなど、テロ後の対応について視察に来るものもいる。

    銃乱射事件が起きた島に、民主主義や過激思想を学ぶ建物を立ち上げる

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    ウトヤ島には小舟で向かう。事件当時は、フィヨルドを泳いで生き延びた者もいた Phoot:Asaki Abumi

     事件から5年がたち、悲劇を後世に伝え続けるために、ウトヤ島にはメモリアルセンターが建てられた。13人の若者の命が奪われた現場となったカフェの小屋の解体を青年部は望んだが、世論が反対した。結果、犯人が撃った銃弾の跡などを残したまま、メモリアルセンターができた。「ヘインフーセ」(守護の家)と名付けられた館内には、生存者や犠牲者の家族の同意の下、当時のSMSのやり取りが寄贈され、展示されることとなった。労働党青年の現代表マニ・フサイニは、取材に対して「この家の名前は、中にあるものを守るという意味です。館内には、かつてのカフェの一部が残っています」と答えた。
     7月15日付けのアフテンポステン紙では、館は「過去の出来事を悲しむ場所ではなく、未来を考える場所」であり、「どのような世界を望まないか考える場所ではなく、どのような世界をこれから作っていきたいか考える場所」だと説明されている。ただの展示館ではなく、「教育の場」でもあり、民主主義を問い、過激な極右思想、法制度、情報源を批判的に読み解く能力、ヘイトスピーチ、7・22に何が起きたのかを学ぶ場所となっている。9年生と10年生には社会科見学の場として提供される。テロの出来事を話しにくいと感じる教員がいる中、良い教育の場になりそうだ。
     クラッセカンペン紙 18日付けでは、「なぜ事件は起きたのか、同じような悲劇をどうしたら避けられるか。歴史から学ばなければ、また繰り返される」とウトヤ島の代表ヨルゲン・フリドネスさんは語る。

    事件を内部と外部から見つめる、2つのメモリアルセンター

     フリドネスさんは、「2011年に7・22センターで当時のツイッターが公開されたことをきっかけに、SMSの公開が検討されていた」と同紙に語る。オスロ中心地では、爆破現場となった市庁舎内に別の7・22センターがすでに設けられている。そこには、ブレイビクが使用した所持品や車が展示されているほか、ウトヤ島の青年たちの壊れた携帯電話、当日の人々のツイッターでのやり取りが公開されている。
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    爆破事件の現場となった政府庁舎内には7・22センターが設けられている。ブレイビクが爆弾として使用した車の残骸 Photo:Asaki Abumi
     市内にある7・22センターは、事件を外部からみつめる。その一方、ウトヤ島でオープンするメモリアルセンターでは、被害者と愛する者たちのプライベートなSMSが初公開されており、事件を内部から見つめることができる。

    生存者と犠牲者、愛する者たちとのプライベートなやり取りが初公開

     ウトヤ島のセンターは22日に公開されるが、地元の大手アフテンポステン紙がその一部を公開した(以下、新聞より引用)。

     ベネディクテ・ヴァトンダル・ニルセン(15)から助けを求めるSMSを受信した時、母親は、娘が大げさに妄想を言っているのだと勘違いをした。ベネディクテさんは、ブレイビクからの銃声から逃れるために小屋に隠れていた。
    17:25
    娘:ママ、大変よ。銃で攻撃を受けているの!!
    母:どんな武器なの
    娘:警察に電話して!ここに向かってって!
    母:そこに大人は誰もいないの?
    娘:いるわ!ママ、私殺されそうなの。助けて!労働党への攻撃よ!
    ウトヤ島は、子どもにとって一番安全な場所だと思っていた母親。警察が島で事件が起きていることを認め、母親は事態の緊急性をやっと理解した。
    17:46
    母:警察と話したわ。電話して。
    17:58
    母:電話してちょうだい
    18:12に、2人は電話で会話をし、娘は「ママ、これから何が起きても、私がママを愛していると覚えていてね」と伝えた。物音がして、電話は切れた。
    18:13
    母:警察とまた話したわ。ウトヤ島に向かっているそうよ。電話して。ママもそっちに向かおうか?
    警察のレポートでは、18:14に娘は腹部を撃たれ、射殺された。13人の仲間と一緒に、腹部から血を流した状態で水辺で発見された
    18:53
    母:電話して。迎えにいこうか?
    19:04
    母:そっちにいこうか?
    19:20
    母:お願い、電話して。迎えにいくのに、どこにいるか知る必要があるわ。

     警察には島に来ないように促されたが、母親は車で全速力で向かった。娘は水泳が得意だったから、きっと泳いで逃げたのだろうと思っていた。それから4日間、ほかの家族と同じ待機場所で知らせを待ち続けた。心が引き裂かれるような時間が続いた。事件が起きて約1週間後、電話が鳴り、母親は娘の死を知った。今でも犯人への怒りや、救助が遅れたことに怒りを隠せない母親のベアテ・ヴァトンダルさん。犯人や極右の思想、娘に何が起きたのかを後世が忘れないために、SMSの公開を許可した。


    ブレイビクが狙った、「青年部」とは何か?

     最後に、「青年部」とはなにかを説明したい。日本ではあまり注目を浴びることがないが、ノルウェーでは各政党に「青年部」があり、ここから未来の有望な政治家が育成される。現在の首相や大臣たちも、多くが青年部で10代の頃から楽しい政治活動時代を送ってきた。青年部の主張は母党に大きな影響を与え、青年部で採用された法案は、数年後に国会で可決されることもある。筆者が普段、集中的に取材をしているのもこの青年部だ。青年部の若者たちは、ノルウェーにとって「明るい希望に溢れた未来」そのものなのだ。
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    ウトヤ島のサマーキャンプではテントで寝泊まりする Photo:Asaki Abumi

     ブレイビクが狙ったのは、移民背景の政治家が多く、移民政策に寛容な当時の与党で、当時の首相が所属していた労働党の青年部だった。どこの青年部でも、7〜8月にはサマーキャンプが開催され、若者たちはスポーツや政策議論をしながら数日間を過ごす。ブレイビクが血で真っ赤に染めたのは、労働党青年部の子どもたちがキャンプをしながら楽しむウトヤ島だった。ウトヤ島は、「労働党の心臓」とも例えられる、政治色の強い場所だ。
     青年部たちは普段もテレビや新聞で頻繁に取り上げられるため、国民の間でも愛着が深い。ノルウェーでは、政治活動に積極的な若者は好意的に受け止められる。だからこそ、国の未来を担う青年部の若者が残酷に殺害されたことは、国民にとって大きなショックだった。
     テロ後、若者と民主主義の攻撃だとして、各政党への党員申し込みは急増した。ブレイビクの思惑は外れ、政治活動に積極的な若者たちはさらに増えた。「ブレイビクが否定した今のノルウェーを、私たちは維持する。ノルウェーは変わらない。憎しみの道を辿らず、憎しみには負けない。憎悪や差別感情を拡散させないために、後世に歴史を伝えなければいけない」。この思いを支えにし、ノルウェーでのテロ議論や憎悪や差別との闘いは、これからも続いていく。Photo&Text: Asaki Abumi

    [執筆者]
    yoroi-profile.jpg[執筆者]
    鐙麻樹(ノルウェー在住 ジャーナリスト&写真家)
    オスロ在住ジャーナリスト、フォトグラファー。上智大学フランス語学科08年卒業。オスロ大学でメディア学学士号、同大学大学院でメディア学修士号修得(副専攻:ジェンダー平等学)。日本のメディア向けに取材、撮影、執筆を行う。ノルウェー政治・選挙、若者の政治参加、観光、文化、暮らしなどの情報を数々の媒体に寄稿。オーストラリア、フランスにも滞在経歴があり、英語、フランス語、ノルウェー語、スウェーデン語、デンマーク語で取材をこなす。海外ニュース翻訳・リサーチ、通訳業務など幅広く活動。『ことりっぷ海外版 北欧』オスロ担当、「地球の歩き方 オスロ特派員ブログ」、「All Aboutノルウェーガイド」でも連載中。記事および写真についてのお問い合わせはこちらへ

    ノルウェー流テロとの付き合い方

    連続テロから5年 復讐という選択肢を拒むノルウェー 遺族や生存者が当時の
    悲惨なSMSを公開

    2011年にノルウェーで一人の男が77人の命を奪った連続テロ事件から間もなく
    5年。禁錮21年と短く感じられる判決に豪華な独房などの寛容さは何を意味す
    るのか。テロ被害に遭った他の国からも視察が訪れるというノルウェー流テロと
    の付き合い方> 


    「ひとりの男性がこれだけの憎悪をみせることができたのです。私たちが共にど

    れだけ大きな愛をみせることができるか、考えてみてください」

    2016年7月10日日曜日

     速報 死刑廃止世界大会の袴田ひで子さん
    CPRニュースレター87号(2016年7月10日発行)掲載予定)
    NPO法人監獄人権センター(CPR)事務局長  田鎖麻衣子

    6月21日から23日まで、オスロ(ノルウェー)において開催された死刑廃止世界大会に、袴田巌さんの姉・袴田ひで子さんがゲストとして招かれた。この大会は、フランスを本拠地とする国際的な死刑廃止団体ECPM(“共に死刑に反対を”の意)が、世界死刑廃止連盟(WCADP)と共に3年に一度開催するもので、第6回となる今回は、ノルウェー、フランス、オーストラリア各政府の後援のほか、EU、ルクセンブルク、スペイン、トルコ、ベルギー、モナコ、イタリア、フランコフォニー国際協会、パリ弁護士会などによる援助を受け、世界90か国以上から参加者を得て行われたものである。監獄人権センターはWCADPの構成団体であり、筆者は第1回のストラスブール大会から欠かさず参加してきたが、今回は、83歳にして初の海外渡航となるひで子さんの付き添い役という任務を帯びての出席となった。
    開会式[1]に先立つ公式記者会見に、ノルウェーのブルゲ・ブレンデ外務大臣、フランスのジャン=マルク・エロー外務・国際開発大臣(元首相)らと共に臨んだひで子さん。最近の巌さんの様子について「48年も監獄の中にいたらまともではいられない。巌は、巌の世界を作り上げて別人間のよう。今は家に帰り、肉体的には健康だが、精神的にはまだ監獄の中にいたときのまま」と述べた。また、翌22日の夜にオスロ大学で開かれた特別イベントには、2015年のノーベル平和賞を受賞したチュニジア国民対話カルテットのメンバーや、アメリカ、アイルランド[2]、ウガンダ[3]、マラウィ[4]の元冤罪死刑囚らと共に登壇。ひで子さんは、事件直後から現在にいたる雪冤の闘いを振り返り、「事件発生から50年になりますが、巖にとっても私にとっても取り戻すことのできない半世紀です。巖は固く心を閉ざしながらも、必死で生きるための闘いをしていると思いますし、その心の中は張り裂けんばかりの無実の叫びであふれかえっていることと思います。Thank you for your attention(ご清聴ありがとうございました)」とスピーチを締めくくった。会場は総立ちとなり拍手を送った。
    袴田さんの事件には、アムネスティ・インターナショナルをはじめとする世界の人権団体・個人が救援活動に取り組んできた。そのため、世界の死刑廃止コミュニティにおけるひで子さんの知名度は非常に高く、様々な人から声をかけられたのだが、誰もが、背筋をまっすぐに伸ばし確かな足取りで歩きまわり、はきはきと話すひで子さんに、「60代くらいにしか見えない」と驚愕。巌さんの無罪が確定したらぜひお揃いで私の国に来てください、という誘いも少なからず受けた。東京高裁での即時抗告審は既に3年目を迎えているが、1日も早く再審が開始され、巌さんの冤の雪がれることを願う。 



    [1] 開会式には、死刑存置国も含め世界10数か国の閣僚が出席したほか、ロベール・バダンテール氏(フランスが死刑を廃止した際の法務大臣。現在はECPMの名誉総裁。ひで子さんが対面した中で唯一、ひで子さんより年上=88歳=の人物)、ザイド・フセイン国連人権高等弁務官(ヨルダン王子)らがスピーチ。フランシスコ・ローマ教皇からのビデオメッセージも流され、広く世界に報道された。
    [2] アイルランドがすべての犯罪について死刑を廃止したのは1990年だが、大会に参加したピーター・プリングル氏は1980年に死刑判決を受けた。
    [3] ウガンダでの最後の死刑執行は2005年であり、事実上の死刑廃止国と位置付けられている。https://www.deathpenaltyworldwide.org/country-search-post.cfm?country=Uganda
    [4] マラウィでの最後の死刑執行は1992年であり、事実上の死刑廃止国と位置付けられている。https://www.deathpenaltyworldwide.org/country-search-post.cfm?country=Malawi